山形城主秋元家の御廟所と戊辰戦争について

これは、平成29年6月17日(土) 山形城主秋元家御廟所である浄土院にて、漆山陣屋・戊辰戦争百五十回忌法要 が行われた際にまとめられたものです。

目次

9 館林藩 漆山陣屋図と高擶陣屋図 は、平成29年7月17日追加しました。

秋元家とは

 徳川家康に仕え関ヶ原の戦いの功績により上野国総社(前橋市総社町)1万石の大名となる。総社32年間→甲斐国谷村71年間→武蔵国川越5万石63年間→山形6万石78年間→館林6万石26年間で明治を迎える。館林へ転封後も山形県内陸部に4万6千石の飛び地を所有。譜代大名として寺社奉行、老中、奏者番を務めた。

 山形在任期間は明和4年(1767)~弘化2年(1845)まで、秋元涼朝・永朝・久朝・志朝の4代。秋元家の入部前、山形は3年間幕府領になっていたため、三の丸は畑地になり家臣の屋敷は取り壊されるなど城内は荒廃していた。家臣の長屋を急造し、秋元家は本丸の御殿ではなく現きらやか銀行や至誠堂病院周辺に「新御殿」を建設し、次の水野家時代も使用した。

 山形藩から館林藩に転封した際の藩主秋元志朝は、長州の支藩である周防徳山藩主・毛利広鎮の子で、母の実家である秋元家に養子に入った。幕末の長州に関係が深く、長州の家老となった福原越後は兄、「そうせい候」こと藩主毛利敬親の養子に入った毛利元徳は弟。

 志朝は「禁門の変」において長州との内通を幕府から疑われ、蟄居を命じられ元治元年に隠居。養子に迎えた礼朝に家督を譲るが、藩の実権は志朝が握っていた。幕府による「長州征伐」では幕府・朝廷・毛利家の仲介を務める。

 戊辰戦争勃発後の慶応4年閏4月には、館林藩は官軍より錦旗を下賜され会津や越後などに出兵している。戦功により戊辰後1万石加増される。版籍奉還後は旧藩主秋元礼朝が藩知事となる。館林城は明治7年に城内大名小路からの出火で焼失。礼朝以後、興朝、春朝、順朝…と続く。明治17年に興朝より子爵となる。

漆山陣屋

 秋元家が館林へ転封後の弘化3(1846)年から明治3(1870)年に山形県に属し陣屋が廃止されるまでの約20年間、館林藩士と家族が多い時で約300名暮らした。寺院記録によれば、弘化3年に浄土院が一時「秋元但馬守様借御役所」となっていた。

 慶応4(1868)年3月、奥羽鎮撫総督軍(官軍)が京都から仙台に船路で入り、奥羽諸藩に会津藩と庄内藩の討伐を命じる。この頃奥羽内では武力衝突を避けるため動いている最中であった。

 官軍は天童藩に庄内藩攻撃の先鋒を命じ、山形藩・上山藩・漆山陣屋にも出兵を命じた。4月下旬、陣屋勢は最上川沿い仁田口に配備。川を挟んで銃砲戦が数日続くも膠着状態。官軍は庄内軍へ総攻撃をかける予定でいたが、情報が漏れ、逆に庄内軍から川を渡って攻撃される。

 このとき陣屋から出兵した人数は約30名、武器は大砲一門、銃2丁のみ(戦中紛失)。同じく官軍側についた山形藩は、庄内藩への戦意はないとする密書を送っていたため、天童藩と漆山陣屋勢だけが唯一本気で戦ったとされる。天童城下が標的となり焼き討ちされたため、漆山にも庄内軍が襲来すると危惧し、残った者で陣屋を警護し家族は東山へ避難した。出兵した者は散り散りになり夕刻に帰還。黒煙が立ち上り天童からの灰が七浦まで飛んで来たそうである。

 閏4月下旬、庄内藩より使者があり、「先の戦闘で敵対したのは庄内に恨みでもあるのか」と厳しく追及され、蔵増村に駐屯していた庄内藩家老酒井吉之丞まで出向いて謝罪し、陣屋内の兵糧200俵を差し出すことで許されている。

 5月、仙台藩・米沢藩の呼びかけで「奥羽越列藩同盟」が成立する。陣屋内では館林本藩の許可なく奥羽側に付くべきか評議一致せずにいた。6月初旬、米沢藩より奥羽側として出兵するよう命じられ、35名が越後口などに出兵。家族は米沢領内の宮内へ約一ヶ月間移動させられた。

 東北での戊辰戦争が終結した後、秋田から東京へ凱旋する官軍の一行が10/17~27まで10日間滞在した。これは藩主秋元家が願い出てのこととされる。薩摩・長州・筑前・長崎の兵士と館林本藩からの合計714名が漆山陣屋・豪農・寺院に分宿。降伏した諸藩も挨拶に訪れたため、漆山は空前の賑わいであったという。

浄土院「官軍墳墓」

 明治2年4月建立。柵内外にある石灯篭には「漆山陣屋一統」とあり、館林藩家臣と漆山詰め藩士約400名の名が記してある。

 本堂裏に安置してある「秋元家御位牌」は、大正13年の漆山大火により本堂他焼失したものの当時の役員により池に投げ込まれ助かっている。

梶塚勇之進正繁

 官軍の命令を受け大砲隊長として最上川沿い蔵増に出兵。閏4月4日、庄内軍の攻撃により被弾し戦死。41才。徴兵した農民も数人死傷。

 蔵増にも「戦死之地」碑がある(ゆぴあ北、村山橋東側の果樹畑内)

森谷留八郎垂休

 「漆山陣屋はやむを得ず奥羽越列藩同盟に加担することとなった」という状況を館林本藩に伝えるため、6月下旬、馬喰商人に変装し伴2名を連れて陣屋を出立。道中で怪しまれて牢に入れられるなどした。宇都宮を経て館林に入り藩主へ陣屋の状況を述べる。

 帰路の9月7日、土湯(福島市、二本松藩領)の山中で3人とも殺害される。30才。二本松藩と仙台藩の敗残兵の手とされ、捕縛の後、森谷の遺児によって仇討ちされたという。

「勝沼事件」

 勝沼 精之允…館林藩の江戸詰め藩士であったが、佐幕論者で会津藩士らと交流があったとして高擶での謹慎を命じられる。8月中旬、43~18才の7名を率いて脱走。現地情勢から奥羽側の勝利を予想し、「陣屋が奥羽側に味方すれば、徳川や奥羽に対して面目も立ち、秋元家の存続は守られる」と考えての行動だったとされる。

 勝沼の妻は上山藩の儒学者の孫娘であるため上山城下に潜伏していたが、列藩同盟崩壊後、館林本藩から勝沼らの行動は謀反であるとされ追手をかけられ、潜伏先の上山の民家にて10月25日自害、35才。勝沼に同調した者は捕縛され漆山陣屋にて取り調べられた後、館林へ護送された。

出羽地区調練保存会「通称 ていひゃらや」の由来

 明治20年頃、天童藩の「維新軍楽隊」に倣い導入(かつて漆山を通った官軍の姿が影響したと推測する)。天童では明治17年に建勲神社の祭典において、明治初期に作られた軍楽隊を再結成したとされる。漆山では昭和30年代に一時途絶えたが、昭和62年に保存会が結成され復活、9月の地区例大祭で奉納・行列している。県内では他に天童南部小学校と上山藩鼓笛楽保存会が活動している。

山形名物「芋煮」の由来

 山形名物といえば、「芋煮」。この「芋煮」の由来は様々あるようだが、ある文献によると、江戸時代後期、山形城主秋元志朝が、館林藩に転封されるときに芋を煮て振舞ったという記録を「芋煮会」の起源とする説がある。

秋元家に関連する遺構

  • 石碑:漆山陣屋「漆山営址碑」、霞城公園内旧済生館の裏手「山形城墟碑」、薬師公園内「種痘碑」(藩医長沢理玄を顕彰)
  • 菩提寺泰安寺跡(大手門パルズに灯篭残る)、寿稲荷神社(山形三中隣)、大日堂梵字石(小姓町)、田山花袋の碑(梵行寺。明治期の文豪で両親は高擶→館林へ)、小白川天満神社に家臣奉納品、「秋元大神」「仁君御武運長久」碑(高瀬)
  • 高擶陣屋跡・尾曳稲荷神社(館林転封後の弘化3年に家臣らが館林より分霊し崇拝した)
  • 秋元堤(立谷川~荒谷付近)

秋元家と浄土院の関係資料等

御廟所の建設にあたり、秋元家より三百両を寄進していただいた請書
(当時の総代は、矢萩清助氏・半澤久次郎氏・那須弥八氏)

御廟所の建設にあたり、秋元家より三百両を寄進していただいた請書
(当時の総代は、矢萩清助氏・半澤久次郎氏・那須弥八氏)

秋元家御廟(本堂裏)

秋元家御廟(本堂裏)

秋元家歴代御戒名

秋元家歴代御戒名

官軍墳墓 館林藩 梶塚勇之進・森谷留八郎墓所

官軍墳墓  森谷留八郎垂休(左) 梶塚勇之進正繁(右)

浄土院の弟子が、当時の総本山(いわき・専称寺)へ修行に出るための通行手形

浄土院の弟子が、当時の総本山(いわき・専称寺)へ修行に出るための通行手形

「去華就實:きょかしゅうじつ」


小野田元煕 書(元 館林藩秋元家家臣)
 「去華就實:きょかしゅうじつ」
※「外見の華やかさを取り去り、実際に役に立つ人間になる」という意味の言葉。

 館林藩下士・藤野逸平の二男として生まれ、同藩の小野田安兵衛の養子となる。幼少は、漆山陣屋に母と共に暮らす。館林藩では、徒士格大納戸役、家老付日記役心得、藩内監察、少属などを歴任。

 明治政府では、明治30(1897)年4月、茨城県知事に任命され、さらに山梨県知事、静岡県知事、宮城県知事、香川県知事を歴任。

さいごに

 多数の文献や講座資料等を参考にさせていただきました。

 今回の行事をきっかけに、地区に残る事柄を次代に受け継ぐためにも、古写真・言い伝え・遺構など御存知のものがありましたら、教えていただけますよう宜しくお願い致します。

安養山 浄土院

館林藩 漆山陣屋図と高擶陣屋図

館林藩 漆山陣屋図

館林藩漆山陣屋図

館林藩 高擶陣屋図

館林藩高擶陣屋図


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